1.17

2005年1月17日
あの日からもう10年もたったのですね。

10年前の1月17日早朝、いままで経験したことのない揺れに目を覚ましました。

幸い大阪市内の我が家周辺では大した被害もなく、うちの家でもたんすが倒れた程度で済んだ(一部水道管が破裂したところもあったようですが)こともあり会社へ出かけることにしました。
その時点では鉄道が止まっていることのほかテレビでもそれほど情報をつかめていない様子でした。

当時JRは全線ストップしていたため、京阪で淀屋橋まで出てそれから歩いて職場まで向かうことにしました。

職場につくと元々地盤の弱い場所であったこと、また築20年以上経っていたことなどの理由から会社の窓ガラスはかなりの枚数割れていて、倉庫の中はもうぐちゃぐちゃの状態でした。

午前中はその片づけにかかりっきりで昼休みに初めてテレビをみて事の重大さに気づきました。

そう神戸が大変なことになっていました。

それから西宮、芦屋、神戸にいる友人、知人に連絡をとろうと思いましたがもちろん誰とも連絡はとれなかったです。

翌日の夜、奈良に住む友人から電話があり、西宮の友人と連絡が取れ無事が確認できたこと、そして水と食料がまったく足りないことを伝えてきました。私とその友人は西宮まで水と食料を届けるため出発する事をきめ水と食料を用意しました。

国道43号線を車で走りながら、尼崎あたりでは道の継ぎ目は大きくなっている感じがしました。

しかし甲子園球場を少し越えたあたりで高速道路の倒壊している箇所を越え、町中へ入るとあちこちで倒壊している家屋が見えてきました。

そこで再会した友人は色々なことを教えてくれました。

神戸の友人が無事であってこと、

火事場泥棒にあいそうになったこと、

ご近所の老夫婦の家が倒壊して、近所の人と閉じこめられたおばあさんを助けようとしたこと、

そしてそのおばあさんを友人が見つけたと、

しかし握ったその手はあまりにもつめたすぎて悲しかったことなど

私はただ彼の話を聞くことしかできませんでした。

あれから10年、幸運にも私のまわりの友人、知人、親戚はみんな無事でしたが、あの日の出来事は絶対に忘れてはいけないと思う。

コメント